スプリントスキークラブの歩み(その1)

スプリントスキークラブの歩み(その1)

(はじめに)
スプリントスキークラブのHP(ウェブサイト)を全面的に更新するという話が持ち上がり、その具体化が現在進んでいます。その中で当クラブの誕生とその後の歩みを記録した記事がこれまでなく、その作成を古参会員である筆者が微力ながら担当することになりました。

当クラブが誕生したのは1962(昭和37)年であり、また筆者が当クラブに入会したのは1978(昭和53)です。実に長い歳月がたっていますがその頃の会員からの伝聞や、周年記念時に発行された記念誌などから情報を拾い集め、まとめることにしました。

今回の取りまとめ作業の中で驚いたことは、ある記憶が別の記憶を引き出し、私自身も忘れていた多くのことをあらためて追体験できたことです。これは筆者にとって思いがけない発見でした。読者の方もこの記事を読んでスキーをやってよかった、スキーを続けてきて良かった、と感じていただければ幸いです。

1 スプリントスキークラブの発足と時代背景

(1)クラブ発足のころの時代背景
スプリントスキークラブの歴史は古く、1962(昭和37)年10月1日の小平市スキー連盟(以下、SAKという)の発足と同時に始まりました。

従ってその当時の歴史的背景と密接につながっています。戦後の復興に一区切りつけたとされる1964年(昭和39年)の東京オリンピックなどです。そのころ高度経済成長で人々の生活様式は変わり、余暇を楽しむ「レジャーブーム」が到来しています。この流れはスキーにも影響しており、1961年はスキー客が年間100万人を突破したとのことです。長いスキー板と大きなリユックザックを背負った人々が上野駅や新宿駅でたくさん見かけた時代です。筆者も社会人になり1974年(昭和49年)にスキー板を購入してスキーを始めました。新宿駅を深夜に発車する「アルプス号」に乗車するため新宿駅で列に並んだ記憶が何回かあります。また話はそれますが初めて八方尾根スキー場に行ったときは、白馬駅に早朝につき八方の麓の宿に向かう時、北アルプスの朝焼け(モルゲンロート)に出会い、その美しさに圧倒された思い出があります。

その時代、余暇ばかりでなく昔は高嶺の花と思われたマイカー(車)の購入、カラーテレビを初めに大型家電の普及も進んでいます。そして1972年(昭和42年)には冬季オリンピックが札幌で開催され、テレビに食いついて観た記憶があります。札幌五輪はウィンタースポーツに馴染んでいない人々に冬のスポーツに対する関心を高める機会であったようです。

そのような時代の流れの中で小平市でスキーを楽しんでいた人々の間に連盟設立の機運が生まれ、1962(昭和37)年10月1日にSAKが正式に発足しました。当スキー連盟の発足は三多摩地域でも早い方であるとのことです。その時スプリントスキークラブの初代会長であるO・H先生が「エレガントスキークラブ」という名でSAKに加盟しました(スプリントスキークラブの当初の名称はエレガントスキークラブとのこと)。なお小川先生自身もSAKができるまでは東京都スキー連盟(以下、SATという)でも長い歴史を有する名門の日本アルペンスキークラブに所属していたとのことです。

ちなみにSAT、さらに上部組織の全日本スキー連盟(以下、SAJという)に加入するのは単一のクラブとしてSAT、SAJに登録する方法とSAKのように地域(あるいは職域)で個々のクラブが集まって1つの連盟としてそれら上部団体に所属する方法があります。SAKの場合、大きく分けて小平市のスキー愛好者と小平市にある企業のスキー部でSAKを構成し、上部団体のさまざまな資格取得や競技大会などへの参加が可能となっています。

(2)スプリントスキークラブの萌芽期
エレガントスキークラブとしてSAKに加盟したものの、当初は会員数もごく少なく、その活動はSAKと一体だったようです。しかし当クラブのメンバーは果敢にSAJの検定試験などにチャレンジしており、以下の通りSAJ資格取得者が誕生してSAKの活動にも大きく寄与したとのことです。
1965(昭和40)年 SAK初の準指導員 O・H先生
1970(昭和45)年 SAK初の正指導員 O・H先生
1975(昭和50)年 準指導員に合格 Y・Kさん

また、またSAKの他クラブも技術向上、競技スキーに関しても熱心でSAKの昔の資料を読むと以下の記録が残っている。これらの活動は現在も続いています。
第1回市民スキースクール 昭和38年1月 菅平
第1回市民スキー大会(競技) 昭和39年3月 菅平
また都大会(基礎、競技の両方)や三多摩地域での活動にも積極的に参加し、その後のSAKの隆盛へとつながっています。

(以下、次号に続く)