スプリントスキークラブの歩み(その2)

2 スプリントスキークラブの発展

当記事の「その1」では、スプリントスキークラブの誕生とその当時のスキーにまつわる時代背景、環境に触れましたが、「その2」ではクラブの拡大とスキーにまつわる変遷(カービングスキー、スノーボード)などに関して振り返ってみたいと思います。

(1)会員の増加と活動の拡大
スプリントの会員が増え、クラブ独自の活動が始まったのは1982年(昭和57年)に前会長のH氏と筆者が、翌1983年(昭和58年)年には現会長のY氏が準指導員に合格した頃からです。ちなみにY氏はまだ大学生という若さでした。それまで当クラブはSAKでも弱小クラブで市民大会や都連関係の行事でもあまり成績は良くなかったのですが、クラブが若返りして徐々にスキー技術もレベルアップしていきました。

3名の新指導員が誕生してクラブ単独でスクールを開き、指導もできるようになりました。スキーへの関心が高まっていた時代背景もあり、特に顔の広いH氏があちこちに入会を呼びかけ、入会した人がその友人にまた声を掛けて入会するなどして最盛期には会員が百名を超えるほどになりました。こうして当クラブはSAKの中でも大きなクラブとなり、市民大会では各個人が活躍すると共に団体(当時は団体戦もあった)でも何度か優勝を遂げました。そのころ当クラブは「寄せ集め集団」と呼ばれたりしましたが、多種多様なスキー好きが集まってきて自由で楽しいクラブとなりました。スキークラブは俗にいう体育会的な気風を持つところも多いですが、スプリントの楽しく、自由にという伝統は現在も同じです。

(2)指導員、上級スキーヤーの増加
その後も資格取得者が続出し名実ともに有力なスキークラブに成長しました。なおSAKもこの時期が全盛期でした。市民スクールはバス3台、市民大会も参加者が80名を超えるほどでした。

今現在(2021年)の技術系資格の状況は以下の通りで、レベルが高いクラブと自負できるでしょう。
• 指導員(含む準指導員):18名
• パトロール:3名
• クラウンプライズ:2名
• テクニカルプライズ:4名
• SAJ 1級:18名
• SAJ 2級:3名
• SAJ 3級:1名

(3)クラブを超えて上部団体でも活躍
また当クラブは上部組織のSAK、SATへの貢献も多く、専門委員や役員として活躍しています。最初にSAT教育本部の専門委員にO氏が就任し、スプリントに「スキーの先生の先生」が初めて誕生しました。また1985(昭和60)年にはH前会長がSAK初のスキー公認パトロールとなり、都連の安全対策部の専門委員に就任するなど基礎や競技スキー以外でも活躍しています。さらにOY氏がH氏についでパトロールの資格を取得し、現在もSATでなくてはならない重職を担っています。

(4)スキーを取り巻く環境の変化
当クラブが発足し、拡大していく中で用具の変化などたくさんの出来事もありました。そのことにもこの場を借りて触れたいと思います。

A)スノーボードの登場
雪の上を滑るのはスキーだけと思っていましたが、この頃にスノーボードが登場しました。その人気は爆発的で、現在の若者のスキーとスノーボード人口を比べると後者の比率の方が高いと思われます。

B)カービングスキー
またスキー自体も変化しました。私がスキーを始めた頃には長さ2メートルの板を履いている猛者もたくさんいました。しかしトップから幅の一定な長い板は安定性、直進性はいいのですがターンには不向きです。曲がらない長で板で曲線(ターン)をいかに切れるかがその頃の上級スキーヤーの腕の見せ所でした。カービングスキーが登場し、自分の身長程度の板で容易にターンできるようになりました。またスキー技術全体もカービングスキーの普及で大きな変化があり、昔の板で修行した筆者などにとってはちょっと辛かったことを思い出しました。

C)ジュニアテストとテクニカルプライズ、クラウンプライズの導入
スキーの資格制度についても大きな変化がありました。まずジュニアテストですが、確かに大人と小学生などの子どもが同じ検定内容でレベルを競うのは無理があります。その意味でジュニアテストは子どもたちにスキーを広める一つの前向きの変化と思います。もうひとつのテクニカルプライズ、クラウンプライズの新設も大きな改革でした。それ以前はSAJ1級が認定技術のトップであり、それ以上の資格は指導員でした。しかし指導員はあくまでスキー技術の指導力を評価する資格です。指導ではなく、純粋により高いスキー技術の取得を求めるものにとってテクニカルプライズ、クラウンプライズの導入は時宜にかなう改革と思います。スプリントでもクラウンプライズはO氏、H氏、テクニカルプライズはY会長はじめ4名がその資格を持っています。これだけの高資格者を多く有するクラブはSATでも珍しいと思います。

D)スキー環境の変化
スキーが一気に普及するころ、宿はすし詰め、のろのろ動く一人乗りリフトで長蛇の列、まずい水のようなコーヒーが何百円もするという状況でした。スキーブームでスキー場側も殿様商売で十分にやっていけたのでしょう。しかし、スキー人口の減少と共に宿は改善され、高速リフト、多人数リフトの導入も広がってきました。スキー人口の減少は残念ですが、一人のスキー愛好家にとってはうれしい変化です。

(5)スキー人口の減少、ウィンタースポーツの多様化

SATの主要な事業のひとつに毎年3月初めの土曜、日曜に行われるクラブ対抗競技会、東京都民大会があります(現在はどちらもSL競技のみ)。近年は菅平で行われており、スキーが盛んな頃は表太郎ゲレンデで3コース設けられていました。大勢のスキーヤーが集まりSATのお祭りのような行事です。3コースのうち向かって一番左側のコースは短くシニア用のコースです。あとの2コースがシニア以外の設定でした。それがあるときから裏太郎で2本のコースセットに、その後ファミリーゲレンデに移りコースは2本となりました。ところが数年前からコースが1本になってしまいました。行事への参加者が減り、それに伴って大会役員の削減などで費用を減らすためと思います。何ともさびしい限りです。また若者の参加者が少ないため中年以上のクラスが難関の組となってきました。さびしい限りですが、これが今のスキー界の実情を示しています。その変化はなぜ起きたのでしょうか?そのいくつかを以下で考察したいと思います。

A)バブルの崩壊(近くて安いレジャー)
スキー人口が減ってきたのは日本のバブル経済の崩壊(1970年末から1980年代初めころ)の時期と思います。スキーは費用と時間がかかるスポーツ、レジャーでありそれが理由で年々スキーに行く人も減ってきたと思われます。もちろん人が減ればリフトの混雑は減り、すし詰めの部屋からも解放されるという良い面もありますが。スプリントもこの動向から無縁ではなく新会員の減少、既会員の高齢化に進展に直面しています。ちなみにこれはスキーだけの現象ではなく、他の多くのスポーツもその裾野を構成する若者が減っているようです。

B)スノーボードなど雪上スポーツの多様化
スノーボードの方がカッコ良く?用具代なども安価ということで若者に人気があると思われます。その他にスキーの多様化もあります。かつてオリンピックのスキー競技はアルペン(回転)競技とノルディック(飛躍、距離)しかありませんでしたが、今はモーグルなどの新種目も続々と導入されています。スキー場側もゲレンデにハーフパイプ、ジャンプ台などを新設動きがみられます。そういう意味では従来のスキーと多様化するウィンタースポーツは対立するものではなく共存することが必要と思います。次号にてそのことにも触れたいと思います。

(以下、次号に続く)